―――――黒い目の仔犬、ローレンが俺の担当になったのは、5年ほど前だ。
突然に誘拐されて犬にされた大学出たての青年は、もちろん初めは混乱もしたし暴れもしたが、意外なほど速やかに大人しくなった。
咥えろ、と言われれば何でも素直に咥え、這いつくばって尻を差し出せ、と言われればすぐに従い、命じられるままに屈辱的な哀願を口にして、あられもない姿で泣き叫んでみせた。
激しい調教の時が過ぎると、割りに落ち着いた声で俺に話しかけてくることもあった。
『エディングス。ぼくは、誰かに買われるんでしょうか』
『ああ。逃げようなどと考えないで、一生懸命お仕えすることだな。ご主人様に気に入ってもらうことが、ここでは唯一の犬の幸せだ』
そう言ってやると、ローレンは哀しげに微笑んだ。
『でも。まず誰かが買ってくれなければ、お仕えもできないでしょう。高い金を払ってまで、ぼくを欲しがる人なんているんですか』
自分でも意外だったが、俺は一瞬、言葉に詰まった。
ローレンは飛びぬけて美形ではないが決して醜くないし、大人しくて従順な犬だ。今はやや没落ぎみだが古い家系の家の子息だとかで、言葉も立ち居振る舞いもきちんとしている。
奉仕も酷く下手というほどでもない。身体は敏感で、責められて泣き叫ぶ声は決して演技ではない。
なのに、なぜか彼には色気がないのだ。
中肉中背の特徴のない体は、抱くと合成タンパク質に化学調味料を使って調理した料理のような、どこか素っ気のない痩せ枯れた味がする。快感に悶える時ですら、その嬌声にはシンセサイザーで造られたような無機質な響きがある。
そして、苦痛を加えても快感で責め立てても、衆人環視の中で浣腸をされて排泄しても輪姦されて多数の客や犬の精液にまみれても、次の日にはまた、よくできたカラクリ人形のようなよそよそしい上品さが声にも表情にも戻ってくる。
俺だけがそう感じるのではないと見えて、一度抱いて二度めの興味を示した客も犬も今まで一人もいない。
育ちが良くて品があったり無欲で清楚な雰囲気だったりする犬は幾らも居る。しかし、人気の高いその手の犬とは違って、ローレンには愛らしさがないのだ。
例えて言うなら処女のまま修道院に入って50年ほど過ぎた老いた尼僧のようで、何となく食指が動かない。
多分、さらってきた時には躾け方しだいで売れるようになる、と判断されたのだろうが、これは明らかに判断ミスだった。
しかし、それを指摘するのは俺の役目ではない。
『……まあ、努力するんだな』
俺はそれだけ言ったが、胸の内ではかすかな危惧がよぎっていた。
人気のない犬は結局、犬がどんな様子だろうと注意を払わない乱暴で壊し屋の厄介な客に割引価格で払い下げられることになる。
安ければいい、とこいつのような犬を買うのは、性的な責めより暴力的で無茶な拷問を楽しむタイプの客である可能性が高い。
そうなったら、犬はあっという間にスクラップだ。
『……そうですね。ありがとうございます、エディングス』
静かに返したローレンは、やはり可愛さの感じられない無機質な顔をしていた。
そして成犬になり売りに出されたローレンは、俺の予想通りに値引きの挙句に最悪クラスの客に売られ、一月ほどで見る影もないボロボロの姿で入院する羽目になった。
手足に釘を打ち込まれて風穴を開けられ、ハンマーで肋骨を砕かれてチューブに繋がれた包帯だらけの犬を見て、俺は心底うんざりした気分だった。
何とか命は取り留めたが、回復しても、もう飽きたらしく元が取れなかったと愚痴っている飼い主はさっさと犬を手放すだろう。似たような手合いに二度か三度も売られたら、死ぬか廃人になるかどっちかだ。
まあ死んだら天国へ行けるだろうよ、と見下ろしたとき、廊下で声がして、向かいのドアが開いた。
『じゃあな、レミ。さっさと良くなれ。でないと、外科部長に改造されちまうぞ』
『はい、ご主人様。頑張って早く帰りますから、また可愛がって下さいね。浮気しちゃあイヤですよ』
甘えた声でないているのは、ラインハルトの担当している犬だ。
飼い主は真正のサディストだが、遊び慣れて手加減とプレイマナーを心得た紳士だ。犬も筋金入りのマゾヒストとあって、主人との仲は非常に良好だ。
ただ、プレイが白熱しすぎて担ぎ込まれることが度々あり、病院の常連になっている。
『すみませんな、犬の見舞いに付き合わせてしまって』
『別に構いませんが』
冷たい素っ気のない声は、その客の友人で最近来たホモ・ノヴスだ。ため息をついてベッドの犬に視線を戻した俺は、犬の目が薄っすら開いたのに気づいた。
『ローレン、俺が解るか』
『エディ……ングス……』
狂ってしまっているかと思ったが、ローレンは正気だった。掠れた声で、彼が幾らかハッキリと
『……ぼく……は……』
と言ったとき。
凄まじい音を立て、半開きだったドアを蹴飛ばすようにして、誰かが入ってきた。
輝くように美しい金髪に、俺はそれが先ほどの新人客であることを知った。
つかつかとベッドの横に来て立った青年の整った顔は、青ざめて血の気が引いていた。
『……ローレン』
ベッドの犬が、開くほうの片目を精一杯に大きくする。
『……リック……?』
―――――それが。かつてハーバードのキャンパスで擦れ違った同級生2人の再会だった、とローレンが俺に教えてくれたのは、もう少し後のことだった。
「へへえ。じゃ、大学の同窓生同士が、今は客と飼い犬か」
レオポルドは、面白そうに俺の話を聞いていた。
その太い腕を枕にして、眠くなるのをこらえながら俺は頷いた。
「ああ。相手が確かに当人だと確認したリックは、即座にローレンの飼い主を強引に引きずって、家令フミウスのオフィスへ押しかけた。そのまま札びらを切ってあっという間にローレンの調教権を買い取ったんだと後で聞いたよ」
そして、俺はほっとした。
迷いのない断固とした態度で動きながら、その合間に病院へ来て医者に容態を尋ねたり食べ物を差し入れたりするリックの様子から、ローレンは歩けるようになれば解放されてヴィラを出ると信じて疑わなかったからだ。
アクトーレスなら誰でも、担当している犬の死は有難くない。そして、リックが現れなければローレンは間違いなく、再び壊し屋の客に売られるか引き取り手無しで処分されるかのどちらかになっていたはずだったのだ。
リックがヴィラの中に家を買ったと知ったときも、俺は気に留めなかった。
犬を飼わずに中で暮らす客も居る。また、気に入った犬を飼うことと友人を救うことは並行して両立することもあるだろう。
だが、リックはローレンを外へ出さなかった。
ローレンが退院した日、俺は上司からリックの家に出張するよう告げられた。相談でもあるのか、と思いながらその家を訪れた俺をリックは落ち着き払った態度で迎えて、言った。
以後もローレンの調教は俺に頼むつもりで居る、と。
そのときは、さすがに俺も仰天した表情を隠すことは出来なかった記憶がある。
「……では、お飼いになるのですか?ここで、この犬を」
ぶったまげて思わず聞き返した俺に、リックは平然と答えた。
「そうだ。何か問題でも?俺が金を払って買った俺の犬だろう、こいつは」
リックの冷ややかな声を頭上に聞きながら、ローレンは裸でうずくまって身動き一つしなかった。
「君はずっとこれの担当だったそうだな、アクトーレス。ここで行われている調教を、一通り見せてくれ」
その時には、俺はもう立ち直っていた。こんなことでいつまでもうろたえていては、ここのデクリオンは務まらない。
「かしこまりました、リック様」
俺は、慣れた手順で調教にかかった。吊り上げたローレンの、病院暮らしでやや肉のついた身体に鞭が飛ぶ。
「あ、ああっ!ひっ、ああ―――――っ!!!」
悲鳴を上げて泣き叫ぶローレンを、リックは紫煙をくゆらしながら無表情に眺めていた。
簡単に一通りの調教コースを終えて一段落したとき、椅子にかけていたリックが不意に立ち上がった。
「アクトーレス・エディングス。これは、俺が突っ込んでやっても問題はないわけか?」
何を訪ねられているのか俺は一瞬迷ったが、とりあえず無難な答えを返した。
「はい、どうぞ。性病の検査は一通り済んでおり、どれも陰性です。体内の洗浄も済んでいます。どっちの口の使い方も、仕込んでありますよ」
「そうか」
短く答えてかつての友人に歩み寄った彼は、ズボンの前を開け、犬の腰を掴んで無造作に突っ込んだ。
「!!!!!」
調教で馴らされてゆるんでいたとはいえ、いきなりの衝撃にローレンが声も出せずに目を見開く。
リックは、そのまま何も言わずに犬が意識を失うまで犯して、その身体を放り出した。
「寝ているのでは面白くない。夜までに、また使えるようにしてくれ」
そう言って服を直すと、リックは出かけてしまった。
何なんだ、と半ば途方にくれたような気分で言われた通りにローレンのケアをしてやり、階上の部屋へ入れて降りてくると、ちょうどリックが戻ってきたところだった。
彼は、大きな包みを抱えていた。中身は、本とバイオリンだった。
「あれが読むだろう。それと、昔キャンパスで弾いているのを見かけたのを思い出した。俺が来るまでの暇つぶしに使え、と後で言っておいてくれ」
本は中世の希少本、バイオリンは楽器店に飾ってあったストラディヴァリだった。
どちらか片方でも俺の給料の一年分は飛ぶだろう、と半ば呆れた俺を居間に残して、リックは二階に上がっていった。
ほどなく、黒髪の犬が再び喘ぐ声が聞こえてきた。
もう考えるのも面倒くさくなって踝を返しかけた俺は、そのときやっと気づいた。
頭上から聞こえてくるすすり泣くようなかすかな声は、無機質で機械的な快楽の応答ではなかった。
今までずっと、ただスイッチを押されたロボットのようだったローレンの声は。初めて、淡くほんのりと色づいていた。
「……それが、“世界で一番幸せな犬”ローレンの御伽噺の始まりだ。リックは、仕事が落ち着いて時間が空くや否や、ヴィラに来て犬を抱く。その時には、居ないときに使え、と言って本や楽譜やCDや、ありとあらゆる種類の土産を置いていく。この前は、ローレンが星が好きだと言ったらしくて、家にドームを増築させてプラネタリウムをつけやがったよ」
話し続けながら俺は、困ったように笑ったローレンの、いつのまにかふんわりと柔らかくなった表情を思い出していた。
ローレンがリックの所有になって少しして、俺は何故か、暇な時間にリックの持ち家を訪問してローレンを見舞うようになった。
リックは絶対にローレンを売らない、例えヴィラの神であるパトレス・ファミリアスに告げられようとも犬を手放さない、と確信してからは、ローレンと俺の間には単なる犬とアクトーレスだけではない奇妙な空気が漂うようになっていたのだ。
――――友情のような、と言っていいのかどうかは、解らなかったが。
とにかく俺は、度々ローレンのもとを訪れてあまり上手でない演奏に耳を傾けた。
「リックはね、ぼくにとても酷いことをしているつもりでいるんだよ。イアン」
小洒落たカットソーとジーンズ姿で、ヴァイオリンを置いてローレンが呟く。
普段は服を着せておけ、とリックが言い張り、家令フミウスが風紀が乱れると泣き落とし、家から出さないことで決着がついて以来、ローレンが裸で床を這うのはリックが来たときだけだ。
「ハーバードに居たときのぼくは、お坊ちゃんだったからかなあ。美人の婚約者が居てね、成績優秀で行儀のいい学生だったんだよ」
くすくす、とローレンは笑った。
「だから。育ちの悪い成り上がりの元同級生にイかされたり犯されたりするなんて、それはもう、とんでもない屈辱と苦痛だろうって。そう思ってるから、来ると必ずぼくを抱くんだ」
俺は、口をへの字に曲げた。
ヴィラに半年居る犬なら、そのくらいは仔犬の段階で軽くクリアしている。
おまけにローレンは、犬に堕ちることに抵抗を見せない、珍しいタイプの人間だった。
そもそも少しおかしいんじゃないか、と俺が疑うほど、本当にすんなりと、彼は自分に用意された運命を受け入れたのだ。
「前の主人に何されたか、知ってるくせにね。殴りもしない、蹴りもしない、鞭も電気も使わないで、ただぼくを気が済むまで抱いて帰ってく。そのくらいで、何もかもをリックに貰って暮らしてるぼくが、どうして憎めると思うんだろう」
可哀相なリック、と彼は呟いた。
「ハーバードに居た頃から、ちょっとだけ解ってた。リックは、好かれたくないんだって。人の心って変わるだろ?好きだって気持ちだけで傍に居る奴は、嫌いになったら離れてくから」
そう言って、ローレンはリックの過去を教えてくれた。
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